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先日新約聖書を頂いたので、聖書を読み直してみようと思いました。
私は物心ついた頃にキリスト教の世界に近いところで教育を受けたため、キ リスト教に抵抗がないのですが、そういった経験が無い方にとってはとっかかりがないのが、聖書だと思います。
私もキリスト教の教会附属幼稚園に勤めていたのに、聖書のことは疑問だらけでした。
勤め先では教師の聖書勉強会もありましたが、わからないことだらけでした。
こんな事を聞いて良いんだろうか?という疑問がたくさんありました。
図書館に入った本のリストをチェックしていて『聖書の読み方』という本を見つけたのでリクエストして読んでみることにしました。
聖書関連の本の多くは聖書をある程度理解しているクリスチャンの方向け、私のようにクリスチャンではないけれど、聖書を読み解いてみたい人には???がたくさん浮かんで難しすぎるんです。
この本は聖書を読むにあたってどんな???がありましたか?その要因について語られた本でした。
著者の大貫隆さんは東京大学大学院人文科学研究科西洋古典学専攻博士課程を修了された方で専攻が、新約聖書学、古代キリスト教文学だそうで、まさに疑問に答えてくれそうなプロフィールだと思いました。
今は自由学園最高学部教師、東京大学名誉教授、聖心女子大学非常勤講師をされているそうです。
3つの大学(自由学園の最高学部は大学とほぼ同等の教育機関ですので)で学生向けに質問をされました。
幼少時か最近かを問わず、旧新約聖書を読もうとして、もっとも戸惑ったことはなんですか。タブーは一切なしで自由に書いて下さい。
これこれ!!
牧師先生にお話しを伺いたいと思っていたことはまず、これなんですよ~。
そして聖書で神さまが伝えたいと思っていることを知るより先に、私たちが理解できない部分の解釈を教えて欲しい。だって理解できないとそこから先に進めないですもの~。
学生さんから上がった戸惑いは私も感じていたことそのもの。
以下質問事項については本文から引用させていただきます。(著作権上問題がある場合は書き直しする場合があります。)
- 聖書の中で語られる物語と現実のギャップをどう捉えればよいのか。たとえば、人は塵から作られた、という聖書の中の供述と、科学的に見た人類の誕生の課程は異なる。キリスト教を信じる人は科学的知識を否定し、聖書のことばを信じるべきなのか。
ああ、それは私がいた日本基督教団については科学的なことは事実として受け止めていましたね。日本基督教団はいくつもの教団が連合して出来た団体で 聖書のとらえ方はある程度近いです。細かいところでは違いはありますが・・・。
聖書の言葉は比喩的に捉えていると考えているようです。正確な言い方ではありませんが、私はそう思っていました。
- 「信じるものは救われる」は好きじゃない。神は信じるものしか救われないのか。聖書にあるようなたくさんの戒律を守るのは困難だと思う。 現世でどの程度戒律に従順だったかが、天国に入れるかどうかを左右するものなのか。
昔、バイブルキャンプという合宿に行ったことがあります。
私の両親はクリスチャンではなかったので、キリスト教の団体と言うだけで安心してキャンプに出してしまったようなのですが・・・、
そこの先生が神を信じないものは地獄に堕ちると言われました。
私はショックだったのですが、今考えると自称キリスト教の異端の宗教団体だったようです。
一般的なキリスト教団では地獄に堕ちるなんて言葉は聞きませんよ。だけど、信じなかったらどうなんだろう?というのは私にとっても疑問。そして私が小学生時代そのキャンプで投げかけた質問が学生の質問と同じ、「神を信じないとどうなるか?」と言うことでした。
他にもたくさん読みにくい原因があります。
主語が明確でないとか、話に矛盾があるとか、今の常識からかけ離れているとか。
神が意地悪にみえるとか、正しくない行いをしているようにみえるところがあるとか。
時系列がどうなっているのか分からず、平気で何百年も前後するとか・・・。
全知全能の神であるのに、なぜサタンが出てくるのかとか・・・。
ヨブ記の中で経済的にも社会的にも充分すぎるほど裕福で神を信じて善行なヨブという人が出てきます。
ある時、サタンが神にヨブが神を信じているのは恵まれた状況にあるからだ、とい囁くのです。神とサタンとの賭けの様な状況になり、神の許可のもとでサタンはヨブをさまざまな辛い目に合わせるのです。
どうして神さまは罪のない人間をこのような目に合わせるのか・・・、これも不可解です。
聖書が読むのに難しいと感じる要因についてたくさん列挙されて、どうしてそのような書かれて方をしているかについては書かれているのですが、残念ながら学生さんの疑問ひとつひとつ解釈がされているわけではないんです。私はそちらの解答が知りたかったので少し残念。
それでもどうやって読むか、聖書は時系列で並んでいるわけではなく、文書の配列がどう決められたか、にも触れられて従って、部分部分で読んでいくことを勧められたり、新しい気づきもありました。
教派によって解釈の仕方も違うから、はっきり書けなかったのかしら?それともそれを一つ一つ書き上げる為に書いたのではなく、聖書の成り立ちについて書きたかったから??
近くレオの幼稚園で聖書の勉強会があるので、出席してみようと思います。